自分の境遇が家庭環境による事を理由にした『親ガチャ』なる言葉が話題になっている。昨日まで説明した『立派な大学に入れたヒト』は、親ガチャの『当たり』で、三流大学や大学すら行けなかったヒトは『ハズレ』になるらしい(笑)

当たり・ハズレの価値基準が人生の成功=『お金』になってしまっているが、人生の成功とはお金ではなく、『幸福度』だとオレは考える。よくいう『幸福はお金で買えるか』の極論ならば、オレは『買えない』と断言できる。言うまでもなく、仮に自分が億万長者になって、何でも自由に手に入る財力を持ったとしても、「(オレは幸せだ♡)」とは思わない

仮に全てを手に入れられる様になった時に、毎日お寿司を食べて嬉しいのだろうか? そんなものは1ヶ月で飽きるし、安ッすいインスタントラーメンが食べたくなるかも知れない。『失敗』があるからこそ『成功』が嬉しいし、『逆境』があるからこそ『成功』で得る『幸福』も、より強く感じる事ができる。
毎日ずーっと『成功』が続けば、幸福などもはや何がなんだか解らないぐらい麻痺するし、オレみたいな貧乏人が、しょうもない事で一喜一憂して狂喜乱舞している方が、遥かに『幸せ』なのである(TVでどこかの元・大統領婦人が「愛はお金で買える」とか言ってるけれど、あれは自分を正当化したいだけなのだ:笑)。

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当たりだのハズレだのと『何かのせい』にした所で何も解決しないし、逆に言えばそんな事を気にした事もないぐらい、毎日真剣にバカをやりながら生きている。自分の事をハズレと認める事の方が、何とも憐れで惨めな気さえするのに、何故そんな無駄な思考に囚われ様とするのか。

ひねくれた考え方で悲劇のヒロインもいいが、そんな発想で犯罪でも増えたらたまったものではない。イジけて下を俯かずに生きていける事の方がハッピーで、「(天気も良いしバイクに乗るか♡)」ぐらいオメデタイ頭で、「(やっぱ最高♡)」と思えるのだから、いっそみんなでバイクにでも乗ればいいのだ(笑)

『親ガチャ』なんて言葉を子供が使って良いのは、生まれた場所が紛争地域だったり、親の病気を受け継いでしまった子供ぐらい。だが、そんな子たちですら、自分の親を愛している気がするのである。

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